nenkoro’s diary

寺社仏閣めぐり、ブックレビュー等、日常の出来事をつぶやきます(*^^*)

高台寺・圓徳院にてお抹茶

先日、高台寺に行ったお話を書きましたが、実はその前に圓徳院に行っていたのです。

今日はその圓徳院のお話を書きます。

圓徳院は高台寺塔頭にあたり、秀吉亡き後、北政所ねねが過ごしたところです。

圓徳院 入口

建屋までの瑞々しい緑

門を入ると母屋までつづく瑞々しい緑に包まれます🌿🌿🌿

あたりは静寂に包まれ四百余年前から時間がとまっているかのような錯覚に陥ります。

北庭は小堀遠州が手を加えたもので、桃山時代の代表的な庭園として当時の原型をそのままに留めています。

建物内部はとてもきらびやか。

 時代を象徴する豪華な襖絵 左:雪月花 右:松竹梅  


襖には、金色の派手な松・竹・梅や雪・月・花を描いた襖絵や、白い龍の襖絵が飾られています。これは農民から武士へと成り上がり、天下統一を果たした秀吉の生き様と、秀吉が好んだ派手な文化を表現しています。
他にも秀吉に重用された長谷川等伯による水墨で描かれた樹木の襖絵も展示されています。

百鬼夜行展に因んでか、幽霊の掛け軸も飾られてました~😯

左は江戸時代初期の画家・丸山応挙によるものですが、応挙は初めて足のない幽霊を描いた画家です。

ところで、幽霊っていつ頃から人々の概念にあったのでしょうか――。🤔

日本最古の歴史書古事記」(奈良時代完成)には、死者が行く黄泉の国の存在が描かれています。死後の世界についての概念はこの頃からあったようです。

幽霊が怪談の中で悪霊として描かれたのは平安時代に入ってからで、「今昔物語」に描かれています。その後、能や歌舞伎などでも扱われ、江戸時代になると庶民の間で大流行。

雨月物語」や日本三怪談「四谷怪談」「皿屋敷」「牡丹燈籠」が成立します。

怪談も庶民の間では娯楽だったのですから、それまでの戦乱に明け暮れた時代と異なり、人々の生活も落ち着き、文化が発達したということなのでしょうね。

左の絵は、おどろおどろしい姿をしていますが、右側はちょっとかわいらしい感じ❓

左:幽霊図 丸山応挙画 右:青波幽霊図(江戸時代後期)

右図の香炉で描かれていいる文字は「幽界尚迷」。「現生で迷うだけでなく、あの世でも尚さまよう魂」という意味だそうです。

他にも江戸時代後期に刊行された妖怪の画集「さらし百鬼夜行図」等、お化けに関するものが展示されています。親しみがもてて、どこか愛嬌があります。

さらし百鬼夜行
さらし百鬼夜行

さて、圓徳院は北庭を眺めながらお抹茶がいただけるとのことで、やってきたのですが、歩を進めましょう。

奥へ行くと極楽浄土と地獄を描いた面白そうな屏風もありました。

天国と地獄を描いた屏風

北書院北庭(国指定名勝)
桃山時代の代表的庭園のひとつ。各地の大名から献上された200以上の庭石を用いて造られた枯山水庭園。石組み名人・賢庭作、後に小堀遠州が手を加えています。

岩をたくさん配し、とても力強い印象です😊

北書院北庭 200以上の岩を配した桃山時代の代表的な庭園

庭を眺めながらお抹茶をいただきます☕🍡

お菓子は秀吉の馬印、千成瓢箪にちなんで金箔をのせた瓢箪型の羊羹。

ところで、秀吉と瓢箪って、どういう関係があるのでしょうか――。

秀吉は若い頃、美濃の稲葉山城(現在の金華山岐阜県)を攻めました。この時地元の野武士をたくさん見方につけて勝利しました。
その際、野武士たちとの独自の合図として「瓢箪を振る」というポーズを攻めこむ合図としたそうです。
この戦に勝利し、縁起がいいと気に入った秀吉がその後、武功をあげるごとに一つずつ瓢箪の数を増やしていき千成瓢箪となったと言われています。


お部屋には妖艶な女性の掛け軸。艶やかなその姿をよく見ると

着物の柄が地獄絵なんですね・・・😱😱😱

 

北書院を出ると、秀吉の念持仏である三面大黒天を祀るお堂がありました。
三面大黒天とは、大黒天、毘沙門天、弁財天が三位一体となった神様です。正面と左右と3つの顔がついているのです。

大黒天=福の神、毘沙門天=勝利と子宝、弁財天=学問と教養の神 と、秀吉がこれと出会ってから、天下人への道を歩んだことから、出世守りとされています🍀🍀

三面大黒天を祀るお堂

近くに、掌美術館もあるので、せっかく高台寺を観ようと思うなら、共通拝観券でいっきに高台寺・圓徳院・掌美術館の3つを回ると全体がよく理解できお勧めです🌺🌺🌺