投資から貯蓄へ
日経平均株価がまた値下がりした。
一昨日、日経平均株価は2万7千円を割り込み2万6431円と、年初来安値を更新して取引を終えた。
昨日、少し戻したものの本日は今のところ若干の下落である。
岸田首相は「貯蓄から投資へ」と資産所得倍増計画を掲げている。
日本経済新聞によると、2021年度末の個人の家計金融資産は前年度末比2.4%増の2,005兆円だった。
これは、過去最高の数値である。
内訳の中で最も多かったのは現預金で、1,088兆円と全体の54%を占めた。
アメリカが約1割、ヨーロッパが約3割という比率からみると、日本では資産を現預金で保有する割合が多いといえる。
日本で資産が投資にまわらず現預金にまわされる要因としてしばしば挙げられるのが、日本人の金融リテラシーの低さである。
アメリカでは早くからお金の知識を教え、10歳で初めて株を購入する子供もいる。小学校の授業でも資産運用のシミュレーションを体験させ、金融の教育を行っているところもある。
こういう国と比較すると、日本人が資産運用や投資についての知識を身につける機会は極めて少ない。
かつて日本の金利は5%を超えていた。郵便貯金の定額貯金3年以上の利回りは1974年は8%、1990年の定期預金(1年)の平均利回りは6%であり、わざわざリスクのある株式投資をしなくても銀行や郵便局に預けておけば資産を増やせたという背景も金融リテラシーを身につける機会がなかった要因でもあった。
しかし、今はゼロ金利の時代である。物価が上がった分だけ、資産が目減りしてしまうリスクさえある。
では、岸田政権の言う通り、「貯蓄から投資へ」資産をまわせばよいのだろうか?
岸田さんが首相就任早々打ち出したのは、「新しい資本主義」という名の金融所得増税であった。
金融所得課税は、株を売って得たキャピタルゲインや配当収入に対して課せられるものだが、その税率を引き上げようというのだ。
配当は、企業が法人税を課されたあとに株主に支払われるもので、そこにさらに株主は所得税及び住民税が課されることから二重課税になっている。
その税率は20.315%と、今でも十分高いと思うのだが、その税率を更に上げるというのだから、資本主義の見直しや自由な市場を規制するのではないか、といった警戒感から海外投資家は一斉に日本株を売り、市場から撤退してしまった。
東京証券取引所の外国人投資家の割合は取引の7割を占めるとも言われているのだから、その影響は甚大だ。
日経平均株価は暴落し、「岸田ショック」という言葉を生み、「億り人」ならぬ資産を失う「岸り人」を生み出した。この時、資産を減らし市場から退場を余儀なくされた個人投資家も多かった。
2年前、自分は退職し、この頃すでに株式投資、デイトレやスイングトレードをしていた。
まさに貯蓄から投資へ資産を回していたのだ。
始めた頃は、YouTubeを見たり、会社四季報や株式の本を買って勉強をして、ある程度株価の見方もわかった。
9時から15時まで家でパソコンを見ているだけで数千円から1,2万円稼げるのだ。
その間、びっしりPCに張り付くわけでもなく、植物に水やりをしたり、珈琲を飲んだり自由に過ごせる。
自分の気持ちひとつで「今日はもうトレードしない」と出かけることもできるし、指値だけ入れて別の事もできる。
一度会社を辞めているので、パートなり再就職なり会社で働く方法もあるが、そうすれば煩わしい事も出てくる。仕事の内容でならともかく、雑多な人間関係で煩わされるのは卒業したかった。
何しろ、もう自分は十分社会で働いてきたのだから。
後は余生で早目のリタイアと思っていたのだ。
トレードではコツコツ利益を出した。トータルで見れば、損切りをするより利益を出したトレードの方が圧倒的に多かった。
欲をのばさず、確実な手堅く早目に利確をしていた。
株に「コツコツドカン」という言葉がある。
コツコツと利益をあげて、利確のタイミングもよく売買では利益を上げる回数の方が多いのだが、一回の失敗額が大きいドカンで、今までの利益が吹っ飛んでマイナスになってしまい相場から退場してしまうというやつだ。
自分はまさに岸田ショックとコツコツドカンでやられた。
岸田政権へと移行し、逃げるタイミング、損切りするタイミングを見誤り、金融所得増税の発表でそれまでとは違う取返しのつかない日本株全体の下落の潮流を生みだした。
自分も資産を失った。
自分は失った資産の穴埋めに再び会社勤めを始めた。
投資から貯蓄へ、切り替えた。
解消されない日本の少子化問題を考えれば、市場の拡大や企業の成長性も期待できず、日経平均も下落トレンド。
コロナ禍が株価が高かったというのが皮肉なものである。
コロナもすぐに収束するというアフターコロナの期待感もあったのかもしれない。
また、首相も安倍首相、菅首相であった。
安倍首相は世界でも存在感のあるリーダーで、長きにわたり任期を務め、存在感もあった。菅さんはその後継である。
しかし、岸田さんはいまだ世界に対して存在感も示せず、ましてや金融所得増税などを発表したのだ。
海外投資家からの失望感は大きかった。
その岸田さんが「貯蓄から投資へ」「資産所得倍増計画」を掲げている。
本当に資産が倍増するのなら夢のような話だ。
しかし、私の資産は岸田さんのおかげで半減したのだ。
もちろん、自分の腕の悪さや見誤りもある。
どんな状況でも利益を上げているトレーダーもいるのだから。
しかし、そんな人は一握りである。
株式投資を始めて1~2年で8~9割は退場、いや3年で7割だ、などと言われている。
岸田政権が「貯蓄より投資へ」と言うのなら、諸外国へ日本をアピールし、海外投資家が安心して投資できるような市場にしてほしい。
それと同時に、国内企業が成長できるような改革と少子化対策などに努め、日本が成長する国となるよう舵を切ることが急務である。
かつて安倍元首相がNY証券取引所で力強いスピーチを行ったくらい、強烈なアピールと日本の存在感を海外へ示してほしい。
ノスタルジー
先日、BSで「昭和は輝いていた」というテレビ番組があった。
途中からしか見ていないのだが、昭和を回顧し良き時代として振り返るものだった。
歌にしろ映画にしろ、定期的に昭和を振り返る番組がある。
なぜ昭和は輝いて見えるのか?
それは、昭和世代の視聴者に向けた番組で、昭和世代だけがそう思っているだけだろう。
恐らく、平成生まれの人たちは、その番組を見ても「昭和は輝いてみえる」などとは思わないのではないか?
現に、歴史として振り返る番組はあっても「明治はよかった」「大正はよかった」という番組はないのだから。
「昭和はよかった」と思うのは、一種の懐古主義である。
昭和を幼年時代、青春時代を過ごした年代には「良き時代」として思い出されるのだろう。
自分の生きるうえでの土台を築いた時期に過ごした生活環境をある時ふと思い出し、懐かしむ気持ちは誰にでもある。
時間は一方通行。
過ぎ去ってもう戻ってはこないのだから、よけいに感傷的にさせてくれる。
世の中は絶えず進化し、メーカーはより手のかからない製品を開発し、私たちはその度に不便な製品を手放してきた。生活も便利になった。
20~30年経って、ふと振り返って、以前の不便さは思い出さなくても、その当時の情感だけは想い起す。
失くしたものへのノスタルジーだろうか。
携帯は一つで何役もこなし便利で手放せない。しかし、「東京ラブストーリー」のオープニングで改札前の公衆電話で電話をかける人の列を見て、当時の自分を思い出し、懐かしくも感傷的な気持ちにさせても、その頃の電車を降りるやいなや、改札前の電話を奪いあい、それしか連絡手段がなかった生活には一日たりとも、いや一時間たりとも我慢できない。
利便性に欠けてもある時代が「懐かしい」と感じるのは、技術や製品などが進化しライフスタイルを変えていったからだろう。
私たちは品質の良いものを入手でき、生活が便利になり自由に使える時間が増えた。
なかでも私が便利になったと思うことは、知識の入手である。
昔は疑問や調べたいことがあったら、学校の先生に聞くか本を買うしかなかった。あるいは図書館へ出かけて本で調べるのである。
それが知識の源であり、些細な事でも、知識を仕入れるには時間と手間がかかった。
しかし、今はインターネットで、本を買わなくても瞬時に答えが引き出せる。
インターネットの普及も、初めの頃はダイヤル接続で、「いつも電話しても話し中だ」などと言われる時期を経て、それが、ISDNになり、いまや寝ながらでもスマホを触れば、ありとあらゆる情報が入手でき、Yahoo知恵袋で悩み事相談まで出来るのだから、この手軽さは今の時代の恩恵である。
果たして、こんな便利だと思う世の中も、20年もすればレトロな風物詩と想い起されるのだろうか?
令和の時代を懐かしむようほどに変わった未来の世の中、さらに進化し続ける世の中を見てみたい。
台風のあとで
台風が過ぎると一気に涼しくなり、途端に季節がきっぱりと変わったのを感じる。
人に言われて日の短さにようやう気づき、
網戸の外の虫の音を聞きながら一日の終わりに夕飯をつつく。
ひと頃は、常夏の国が陽気でいいな、と思っていたが、
秋の訪れを感じる物哀しさも四季の移り変わりがあってのことで、
こういう移ろいに日本人は情感豊かに育まれているのかもしれない。
一年に四回、季節が終わり、その度に寂しさや物悲しさを感じ、
新しい季節の到来に喜びや新しい始まりを感じる。
この繰り返し――。
歩道橋の下に満開の秋桜
ようやく雨があがり、足早にでかける人
走っていく子どもたちの声
その下に雨水にぬれた満開の秋桜――
いつか来た道――
まだ若かった母に手をひかれて歩いたような
こどもの頃を想い出すような、なつかしい道
石畳のうえに夏を燃やしつくしたように枯れた葉が落ちる
雨上がりの草むらからコオロギの声
北野異人館~プラトン装飾美術館(イタリア館)
北野異人館 の最後はプラトン装飾美術館(イタリア館)で休憩にカフェを利用しに伺いました。
イタリア館 (プラトン装飾美術館)(旧アボイ邸) - Google マップ
大正の初期に建てられた建物で、現在もオーナーの方がお住まいです。
邸内は18世紀から19世紀のヨーロッパのアンティーク家具・調度品・絵画・彫刻の数々がぎっしり詰まった美しい館です。
今回は駆け足で詰め込んで見てまわっても十分味わえそうもなかったので、カフェで休憩だけにしました。
カフェは庭園のプールサイドにあるので、邸内への入館料を払わなくても利用できます。
午後3時頃に伺いましたが、15分程待ちました。
お水も白いレースのコースターを敷いて出てくると、とても美味しく感じられます。
この日は晴天で神戸山の手で坂道も多いので、お冷のおかわりをお願いするとピッチャーごと持ってきてくれました。
2匹の黒猫がいます。(本物ではなく猫像です)(=^・・^=)
このカフェの給仕の方、とてもおっとりされていて、ビーズの指輪にロングスカートで、とても物腰優雅で洋館とマッチしていて素敵でした。
日頃町中でガツガツ働いている自分には癒される~~
頼んだのはケーキセット1200円。
本日のケーキにシャーベット、ドリンク付き。
ケーキはフルーツとオレンジのパウンドケーキでした。
しっとりしてとても美味しい😋
次回は是非、中まで入ってみたい館でした。
うろこの家はこちら↓
北野異人館~うろこの家
ベンの家の後は、せっかくなので、うろこの家に行ってみます。
ベンの家はこちら↓
🏠うろこの家
神戸で最初に公開された異人館。
国の登録有形文化財や兵庫県住宅百選にも指定されている伝統的な建築物。
外壁は3000枚のうろこ形の天然石のスレートで出来ています。
左にイノシシの像がありますが、鼻をなでると願いが叶うそうです。
私も失礼してなでさせてもらいました🙂
右の赤いのは、イギリスの電話ボックス。


瀟洒な邸内。


マイセンの陶器がぎっしり展示されています。
他にも、ロイヤル・コペンハーゲン、エミール・ガレの工芸品等、世界の名磁器コレクションも展示されています。
たくさんの部屋があります。豪華で優雅
ゴルフ道具も展示。
かつてゴルフを楽しんでいたのでしょうか。紳士のスポーツ。
「クラシックゴルフコレクション」というキャプションがあり、とても古いものです。
こちらは書斎。クラシカルで素敵ですね。
魚の置物が気になる・・・。
これは王家のソリ。
18世紀後半、デンマーク王室が使用したもの。このソリにはバイキング船の船首にあるようなドラゴンの彫刻が施されています。
船首の像は航海の安全を祈るために、魔力をもつとされるドラゴンや蛇などを象ってつけられました。その歴史は古く、古代ギリシャやローマにまで遡ります。
ソリのドラゴンも、バイキング船の船首と同じ役割があるそうです。
とても貴重なものですね。異人館でこんなものを見られるとは思わなかった。
なぜか、2階に片隅に甲冑が・・・。
これも異人さんにコレクションされたものでしょうか。
はがきや写真も展示されていました。
当時の時代、生活、人々の息吹が感じられます。
さて、英国館の辺りからここまで、ずいぶん坂を登ってきたので、少しお茶でもして休憩したい😑
プラトン装飾美術館(イタリア館)に移動します。
神戸山の手、やはりすごい坂が急なんですよ🥲
プラトン装飾美術館(イタリア館)については、また次のお話で。
洋館長屋(仏蘭西館)はこちら↓
英国館はこちら↓
北野異人館~ベンの家
洋館長屋(仏蘭西館)の次は、セット券最後のベンの家に入ります。
洋館長屋(仏蘭西館)についてはこちら↓
🏠ベンの家
ベンの家は、イギリス貴族で冒険家のベン・アリソンが住んでいた日本の邸宅。
館内には、彼が世界中から集めた動物の剥製がぎっしり展示されています。
まず、入って驚かされるのが体長3mのホッキョクグマ。
オオカミやアメリカバイソンなど、かつての勇姿を蘇らせてが所狭しと並んでいます。



2階には蝶のコレクションが多数展示されています。
何の予備知識もなく入ったので、驚きの世界でした。


いや、大迫力です。
この猫の祖先のようなのが気になります。
このあと、まだ時間と余力があったのでうろこの家まで行ってみます。
それは、また次のお話で。
北野異人館 ~ 洋館長屋(仏蘭西館)
英国館の次は、隣の洋風長屋に入ります。
🏠洋館長屋(仏蘭西館)
英国館のお隣にある洋館長屋。
向かい合った2つの玄関をもち、建物は左右対称。
明治時代に建てられ、2世帯が暮らせる外国人向けのアパートとして使われていました建物です。
展示されているのは、ナポレオン時代の家具や19世紀末の調度品、アールヌーボーの旗手エミール・ガレのガラス工芸品等、フランスの美術品を展示しています。



2階に上がると片隅の小さな部屋にルイヴィトンのスーツケースが。
19世紀末のものです。このスーツケースを使って日本へと航海してきたのでしょうか。
部屋にあるのは燭台付きのピアノ
これは、19世紀初めパリで製作されたもので、鍵盤の数は今より1オクターブ少なく73。
この館にはアール・ヌーボーの工芸品が数多く展示されていますが、アール・ヌーボーとは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパやアメリカでおこった革新的な芸術活動。フランス語で「新しい芸術」という意味です。花や植物をモチーフとした、曲線を組み合わせた装飾性が特徴。
丸みを帯びていてその優雅さに見る人、使う人を優しい気持ちにさせてくれます。
しかし、1900年代初頭、時代は大量生産を求めるようになり、低コストでつくれる装飾性のないデザインのものが普及するようになります。
こうして、アール・ヌーボーは退廃的なデザインとして衰退していきます。
再びスポットライトをあびて再評価されたのは、1960年代に入ってからです。
そういう時期があったとは驚きの歴史です。


こちらは、モノクロの部屋。なんと「モナリザ」の絵もモノクロで描かれています!
どの部屋に個性があり、ここにいると不思議な感覚になります。部屋が何かを訴えてかけているような、主張をしているような気さえしてきます。




さて、次は隣の「ベンの家」に行きますが、それはまた次のお話で。
英国館についてはこちら↓